安芸氏は壬申の乱で土佐に配流された蘇我赤兄の流れを汲む土佐東部・安芸の豪族。
国虎は父・元泰が早くに亡くなったため、4歳で家督を継ぎ、その後は重臣・畑山氏の後見を受けながら成長。

1563年頃より長宗我部氏と領地境界での衝突を繰り返し、同年、元親の本山氏攻略の隙をついて安芸勢が岡豊に攻め込む。 この侵攻は福留親政・吉田重俊などの奮戦により退けられ、一条氏の調停で休戦が結ばれる。

数年は休戦状態が続いたが、1569年、機が熟したと見た元親の巧みな挑発で再び開戦。 安芸勢は矢流の戦いなどで支城を次々と落とされ、最終的に本城の安芸城にて籠城し、抗戦。 その間にも内応者が出るなど、これ以上の籠城が困難と見た国虎は籠城24日目、兵士の助命を条件に安芸氏菩提寺・浄貞寺にて自刃。 安芸領は長宗我部氏のものとなった。

滅亡に際しては内応者が出た一方で国虎を慕った者も多く、国虎自刃の際には黒岩越前守・有沢重貞といった重臣が殉死を遂げている。
国虎の菩提寺・浄貞寺にある国虎の墓の両脇には黒岩・有沢両名の墓が向かい合って建てられており、死後もなお国虎を護り支えるような風情がある。