元親の四男で、長宗我部家22代当主。
はじめは吉良家へ養子に行くが、兄・信親が死ぬと元親に呼び戻され後継者となる。

父・元親と共に小田原、朝鮮の役に出兵し、元親百箇条発布の他、この時期の政治関連の 書状には元親と盛親の連判が多いため、二頭政治をしていたと考えられる。

元親死後、家督は盛親に相続されるが時期悪く関ヶ原に突入。 石田三成方西軍で参戦。盛親が戦わぬまま本陣が敗退。
この事と家督相続で兄・親忠を殺害したために家康に咎められ領土没収、 一国の大名から一転、全てを奪われ浪人に身をやつし、徳川監視下のもと、 京で寺子屋の師匠となるが、1614年、お家再興の望みをかけて 豊臣方に味方をし、徳川に今一度反旗を翻す。

八尾の戦いでは土佐武士の意地を見せつけ藤堂隊を完膚なきまでに叩くが、 他方が崩れたために敗走。 再起を図るために京の八幡に潜伏するが捕らえられる。
お家再興のため家康に命乞いをするが聞き入れられず見せしめのため二条城の門外に縛り付けられ粗末な 飯を足軽から宛てがわれると
「戦に負けて捕われる事は恥ずかしくはないが、このような粗末な飯を食う位なら首を刎ねられたほうがよい」
と叱りつけたという。

後に六条河原で処刑。
死に際に至っても怯えることは全くなく立派な最後だったと残る。

暫くは四条で首を晒されたが蓮光寺の住職が墓を建て、現在でも同寺で供養を行っている。





写真提供:高知県立歴史民俗資料館/蓮光寺