長宗我部元親の次男。
1578年、元親の讃岐国侵攻の際、和睦の条件として守護代の香川信景のもとに養子として送られる。 後に香川家を継ぎ「香川五郎次郎」と名乗る(「五郎次郎」は香川家の通字。)
1585年、豊臣秀吉の四国征伐で長宗我部が降伏すると、今度は三男・親忠と交換で人質として大和郡山に送られる。
1586年に帰国してからは、元親より幡多郡山田郷の一帯を宛がわれ、岡豊城下の屋敷で家臣らと共に居住する。

同年、戸次川の戦いで、一族期待の長男・信親を亡くすと、秀吉から元親へ親和に家督相続を認める朱印状を出されるが、元親はそれを良しとせずに四男の盛親に家督を継がせることを決めてしまった。 それが元で親和はショックのあまり病にかかり、岡豊城下で亡くなったなどといわれるが、死因の詳しいことは不明で諸説あり。
秀吉の四国征伐後、香川家が支配していた讃岐六郡は改易され、親和の死により香川家も滅亡した。

親和の墓は、一族累代の墓所ではなく、岡豊城の山麓中程にひっそりと岡豊城を見上げるように佇んでいる。

『元親記』の中に親和の可愛らしいエピソードがある。
まだ親和が8歳の頃、元親の家臣である江村備後守が長宗我部一家を招待してホームパーティーを開いた。 親和は小姓達と庭で「とびとびくらべ」という遊びをしていたところ、親和が転んで庭の石に顔面を強打してしまい、流血騒ぎとなった。
慌てて備後が駆け寄ったが、怪我はそれほどたいしたものではなかったそうだ。