長宗我部国親の次男で、元親の弟。長浜の戦いで兄・元親とともに初陣を果たす。
初陣前、父の国親は元親より親貞の方に信頼を置いていたようで、 元親に勝るとも劣らない人物であったことが窺がえる。

1563年、本山氏の朝倉城退去に伴い、断絶していた土佐の名門「吉良氏」を継ぐ。

その後は、対一条氏の戦いで多数の軍功を挙げ、本拠地幡多攻撃の際は総大将を務め、 1574年、一条兼定がその重臣たちのクーデターに遭い中村城を追われると、 親貞が城代として入り幡多郡一円を支配した。

翌年、兼定が再起を図って攻め込んできたときも、親貞が渡川の戦いにおいて一条勢を大いに破り、 長宗我部氏の土佐支配を決定的なものとした。

しかし翌年1576年、病を患い死去。親貞の死は四国統一を 目指す長宗我部家にとって大きな損失であった。

怨霊譚「七人みさき」の物語のモチーフとなった吉良親実は、親貞の子である。