通称・忠兵衛。元親の家臣。もとは土佐国の神官であったが、 長宗我部元親に見出されて家臣となったのちは、主に外交方面で活躍した。

1585年羽柴秀吉の四国討伐の際は、阿波一宮城を守り羽柴秀長の軍と対峙。 最前線で戦っていた忠澄は、軍勢の多寡、甚だしい軍装の差異いずれにおいても 味方勝利の目はないと判断。他城が次々と抜かれるなか忠澄は見事一宮城を守り、 その間も元親のもとへ赴き抗戦の不利益を説いた。元親の怒りに触れたが、 忠澄は一歩も引かず交渉に尽力、和睦締結を果たし、長宗我部家は土佐一国を安堵される。

1586年には戸次川の戦いに従軍し、 戦死した元親の嫡男・長宗我部信親の遺骨を受け取るため島津家に使した。
信親の遺骸を荼毘に付し、遺灰を持って高野山に上り、 戸次川で戦死した土佐兵700人余の供養の石塔婆を建立した。

1600年、土佐国幡多郡中村城で病死した。