長宗我部家21代当主。生まれつき背が高く色白で柔和。
部屋に籠り一人で遊ぶ事も多く、客や家臣が来ても挨拶一つしない変人であることから上下問わず「姫若子」と揶揄されていた。

22歳の頃遅い初陣を迎えると一転、敵陣を僅かな手勢で襲撃し、 大きな功を立て、「鬼若子」と称され人々を驚かせた。

父親の国親死後、遺言通り近隣諸国を支配し1573年には土佐を統一。 翌年には四国一帯を平定するべく手を伸ばすと1585年、遂に四国を統一。

しかし翌年、秀吉の四国征伐で敗退、土佐一国に戻され秀吉の軍門に下る。

1586年、秀吉の命令で九州征伐の先陣として向かうも敗退。 この時嫡男の信親を失い、跡目争いで荒れる家臣を粛清。 その中でも秀吉には忠義を尽くす。

方広寺大仏殿建立に寄せての木材の調達を誰よりも早く成し遂げ、 生きた鯨を土佐から大阪へ運び秀吉を驚かせ、浦戸にサンフェリペ号が 座礁した時もいち早く対処をすればその働きぶりに秀吉からも感状を頂戴し 豊臣の姓と家紋の使用を許される迄になった。

他にも、浦戸城に移った後は造船に力を入れ、朝鮮出兵では連れ帰った朝鮮人に 人権と商いの自由を許し、元親百か条の発布、後々まで有効であった長宗我部検地の 作成など内政手腕も発揮したが、1599年に京の伏見屋敷で死去。

天龍寺で荼毘にふされ、遺骨は浦戸の城下が一望出来る 天甫寺山の中腹に葬られ、現在でも城下と海を見守っている。





写真提供:高知県立歴史民俗資料館/秦神社/土佐神社